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同じ賽銭泥棒が、定期的にやって来ます。
しかし彼は、ほとんど何も得られずに帰っていきます。
賽銭は毎晩回収しているため、実際には取れません。
それでも彼は来ます。
この彼の反復行動を見ながら、私は「不幸」という言葉を考えます。
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幸福や不幸は主観の問題です。
本人が満たされていれば、外から見てどうであれ幸福でしょう。
私自身、経済的にも精神的にも強いとは言えませんが、不幸だとは感じていません。
他人の基準で測られる幸不幸が、どれほど曖昧なものかは理解しています。
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それでも、彼を見て考えさせられるものがあります。
それは感情的な同情ではありません。
彼は考えが浅いのではなく、そもそも「考える」という行為自体が出来ていないように見えるのです。
なぜ取れないのかを理解せず、改善もせず、結果も得られない。
そこに一切の論理性はなく、無意味な行為だけが、意味を失ったまま繰り返されています。
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「わからない」という状態は、本来は不安や恐怖を伴うものです。
しかし彼の場合、「わからない」ということ自体が理解できていない。
仮に現行犯で捕まえたとしても、
なぜ邪魔するのか。
なぜ叱られるのか。
その理由を理解できない可能性が高いのです。
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ここで言う不幸とは、感情の問題ではありません。
世界を理解し、意味づけ、関係を結ぶための能力が著しく欠けている状態です。
彼は共同体から排除されているのではありません。
自らを共同体から排除する行いを、意図せず実行し続けているのです。
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「彼らしく生きているだけではないか」とも言えるでしょう。
しかし「らしく生きる」ためには、自分が何者で、何をしているかを最低限理解している必要があります。
理解の水準が極端に低い場合、その人は生き方を持っているのではなく、状況に押し流されているだけになります。
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賽銭泥棒は不幸か。
彼自身の主観については、分かりません。
しかし社会的、認知的な条件を踏まえれば、不幸な状態にあると見るのが妥当です。
それは善悪の判断ではありません。
社会における一つの人生のあり方の問題です。
社会から排除させる怒りではなく、むしろ彼を社会にとどめ置きたいがゆえに、ただ彼の人生のあり方に胸が痛むのです。


