先日、熊谷市内からお越しになったあるご家族連れの方から、心に残るお言葉をいただきました。
「毎日、スマホやパソコンに囲まれて、頭の中がチリチリと焼けるような感覚だったんです。でも、ここに来て手を合わせたら、まるで空っぽだったバッテリーに澄んだ電気が流れ込んできたような……まさに『心の充電』ができた気がします」
この「心の充電」という言葉は、現代における雷電信仰の本質を実に見事に射抜いています。
生体電気を整える「雷電の杜」
私たちは今、かつてないほどのデジタル過剰の中に生きています。ITの利便性と引き換えに、私たちの「神経」――すなわち生体電気の通り道は、常に過負荷状態にあります。自律神経の乱れや原因不明の焦燥感は、いわば生体回路の「漏電」や「ノイズ」のようなものです。
当神社が「電気と神経の神様」として仰がれる理由は、単に落雷を防ぐという歴史的側面に留まりません。大雷神(おおいかづちのかみ)が司る雷の本質とは、停滞したエネルギーを劇的に変換し、浄化する「動的な力」です。
熊谷随一の広さを誇るこの境内に足を踏み入れると、まず耳に届くのは木々のざわめきと静寂です。この空間そのものが、巨大な「アース(接地)」の役割を果たします。土を踏み、古い社殿の前に立つことで、脳に溜まった余計な電気的ノイズを地面へと逃がし、神経の伝達を本来の健やかなリズムへと戻していく。これこそが、当神社で体感していただける「充電」のプロセスなのです。
家族で共有する「静寂という贈与」
今回お越しいただいた市内の方は、小さなお子様を連れての参拝でした。「子供が騒いでご迷惑ではないか」と心配されていましたが、広大な境内は子供たちの生命力が弾ける場所でもあります。
成田氏の時代から1000年、この地は「芦毛の馬」の伝説に見られるように、強い神威への畏怖とともに、地域を守る「結界」として機能してきました。家族で鳥居をくぐり、市内最古の木造鳥居が刻んできた時間の厚みに触れる。それは、効率ばかりを求める現代社会から一時的に離脱し、家族という最小単位の共同体で「目に見えない価値」を共有する、極めて贅沢な時間となります。
お子様が「厄割桃」を投げて歓声を上げる姿、それを見守るご両親の穏やかな表情。そこには、単なるレジャーでは得られない「魂の回復」があります。
現代の雷電信仰が示す「自律」
私が提唱する雷電信仰において、「充電」とは単にエネルギーを補充することだけを指しません。それは、自分自身の「神経(内なる回路)」を律し、どのエネルギーと繋がり、どのノイズを遮断するかを主体的に選ぶ「自律」への一歩です。
「IT技術の向上」や「仕事の成功」を祈願される方も多くいらっしゃいますが、その根底にあるのは常に「扱う人間のコンディション」です。回路が焼き切れていては、どんな高度な技術も、どんな大きなチャンスも活かすことはできません。
熊谷の地に深く根を下ろし、電気と神経を司る大雷神の御前で、一度立ち止まる。
空を見上げ、雷雲がもたらす浄化の雨と、その後に射す光を想像する。
そのとき、あなたの内側にあるバッテリーは、最も清らかなエネルギーで満たされるはずです。
「また明日から頑張れそうです」
そう言って笑顔で帰路につかれたご家族の背中を見送りながら、私は改めて、この杜が現代人の「精神のインフラ」として果たすべき役割の重さを噛み締めました。
日々、情報の荒波に揉まれ、心が放電しきっていると感じたときは、いつでも上之の杜へお帰りください。大雷神は常に、あなたの回路を整え、次の一歩を踏み出すための力強い「電撃」を授ける準備を整えて待っています。
有難うございました🌿
#電気と神経の神様
#心の充電
#パワースポット

参拝者の声
仕事でもプライベートでも、常にスマートフォンやパソコンの画面に向き合う毎日。気づけば頭の中が常にザワザワとして、夜も深く眠れない日々が続いていました。
同じ市内でありながら、これほど広大で静かな杜が上之にあることを、恥ずかしながら今まで知りませんでした。一
歩足を踏み入れた瞬間、ピンと張り詰めた、でも温かい空気に包まれ、「あ、ここは空気が違う」と直感しました。
拝殿で手を合わせている間、不思議と頭の中のノイズが消えていく感覚がありました。まさに「心の充電」をさせていただいた気分です。
やんちゃ盛りの子供たちも、広い境内に興奮しながら「厄割桃」を投げて大はしゃぎ。家族全員が晴れやかな顔で帰路につくことができました。電気の神様が、私たちの乱れた神経を整えてくださったのかもしれません。
本当に有難うございました。また心が放電しそうになったら、家族で伺いたいと思います。